ナポレオン二世の心臓の謎〜パリでびっくり〜

2011/12/01

 秋晴れの並木道から遠くに見える黄金のドームはとても印象的。マロニエの木々も少し黄葉し、パスツールの銅像の前から思わずシャッターを切りたくなる風景。足はすでにアンヴァリッド廃兵院、サン・ルイ・デザンヴァリッド教会へと。

 午前中訪れたルーブル美術館とは違い、ここ軍事博物館廃兵院の切符売り場には数名の観光客、足の痛さも忘れ、ナポレオン一世の棺を一目見ようと早速チケット購入。

 もともと退役兵や傷病兵などのための療養施設として1678年に設立され、この教会も「兵士の教会」として建設されました。ドーム型の教会の地下に墓所があり、そこは直径約15メートルと広々としています。その真ん中に荘厳な棺があり、ナポレオン・ボナパルドの遺体が安置されています。

 ベートーベンはボンで1770年誕生。そしてナポレオンはその1年前の1769年コルシカ島で誕生。ナポレオンは30歳の時、フランス革命を起こし、旧制度に反対するヨーロッパ人達の憧れのスターだったのです。ベートーベンも若い頃、「自由・平等・博愛」を唱えるフランス革命精神に大変感動し、ナポレオンを崇拝しました。そして交響曲第3番はナポレオンに捧げるために「ボナパルド」と書きましたが、その後ナポレオンが自らフランス皇帝に即位すると、ベートーベンは憤慨し、その楽譜もペンでかき消し「エロイカ」と題名も改めました。ベートーベンがナポレオンについて「このつまらない男について私も思い違いをしていた」といった有名な言葉を思い出し、私の脳裏には交響曲第3番『英雄』の曲が、いやそればかりか棺の前に立っていると次々と浮かぶのです。

 パリとウィーンは歴史上関連は深く、ナポレオンも1805年と1809年には2度もウィーン占領。ハプスブルグ帝国フランツ二世皇帝はナポレオンに敗退し、オーストリア皇女・マリー・ルイーゼをナポレオンのもとに政略結婚させました。

 ナポレオンの最初の妻ジョセヒィーネとの間には子供が誕生していませんが、マリー・ルイーゼとの間には1811年ナポレオンの息子ナポレオン二世・ローマ王が誕生しました。  しかしナポレオンはその後エルバ島やヘレーナ島に流刑。そしてそこで生涯を終え、残されたマリー・ルイーゼと息子は? 彼女はイタリアへ再婚。息子は祖父のオーストリア皇帝によって育てられウィーンで幼年時代を過ごしますが、わずか21歳の若さで他界。

 ウィーンにはハプスブルグ家の歴代皇帝や皇后など146体の棺が安置されているカプチーナ教会墓所があります。そこにはナポレオンの妻マリー・ルイーゼの棺とナポレオンの息子の棺も安置されていました。

 かつてナポレオンが2度もウィーンを占領したように、ナポレオンを尊敬していたヒットラーもまたオーストリアを1938年から占領。実はカプチーナ墓所に眠っていたナポレオンの息子の遺体がヒットラーの命によって1940年ナポレオンI世の眠るパリのアンヴァリッド廃兵院の教会に安置されたのです。

 ハプスブルグ家には何世紀にもわたる奇妙な風習があります。それはまず皇帝などが亡くなると心臓を取りだしアウグスティーナ教会に、内臓はステファンス大聖堂の地下墓所にそして遺体はカプチーナ墓所に安置されます。

 ヒットラーの命によってナポレオンの息子ナポレオン二世の遺体はパリへ持ち帰られましたが、彼の心臓は今でもウィーンのアウグスティーナ教会にあります。ヒットラーはなぜこの心臓をパリに持ち帰らなかったのでしょうか。あわて者だったのでしょうか。

ドーム教会
【ドーム教会】

ナポレオンの棺
【ナポレオンの棺】

床のモザイク・ナポレオン
【床のモザイク・ナポレオン】

ナポレオン二世・ローマ王の墓
【ナポレオン二世・ローマ王の墓】

ナポレオンの彫像
【ナポレオンの彫像】

エッフェル塔の前
【エッフェル塔の前】

3壁に描かれたナポレオン
【壁に描かれたナポレオン】

アウグスティーナ教会に安置されていますハプスブルグ家の54個の心臓
【アウグスティーナ教会に安置されている
 ハプスブルグ家の54個の心臓】
 ナポレオンの息子の心臓もここにあります

【特派員情報】

ウィーン在住 イップ常子さんからの情報でした。

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